Sing it out 武器としての否定思考

滅びゆく国で生き抜くための武器としての否定思考入門

あらゆる科学的事実は否定可能

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あなた独自の思考は否定することから始まる。
そして否定に必要なのは、理論やデータではなくあなたの頭脳だ。
否定した先に何を築くか。
それはあなた次第だ。


「科学的事実を否定する」というのは、理屈を無視して感情的に信念に走ってしまうことではない。自分自身と周囲をある程度納得させた上で理屈として否定することだ。

初回は科学的事実を取り上げる。その理由は、もっとも権威のある、影響力の大きい事実だからだ。科学的事実が否定出来れば他の言説は簡単に否定できるようになるだろう。

あなたも「科学的に証明されている」などという言葉を盲目的に信じてはいないか?

あらゆる科学的事実が"正しさ"や"納得感"などの主観の連鎖に過ぎないため否定可能だ

目次

なぜ科学的事実を否定することが必要か

  1. テレビや広告などの科学的事実に騙されないため
  2. 実現したい夢や目標を諦めないため
  3. あらゆる既成事実に毅然として立ち向かうため
  4. 思考を研ぎ澄まし自分の頭で考え続けるため

1つ目は、テレビや広告などの科学的事実に騙されないためだ。科学的事実には人が無批判に服従しやすい。そのため、至る所で濫用されている。テレビの視聴率を稼ぐために学者に喋らせる。売り上げを伸ばすために「効能が実験で実証されています」などと言う。彼ら製作者は賢いので嘘は言わない。しかし、科学的事実など利用する側によっていかようにも作られるものだ。

2つ目は、実現したい夢や目標を諦めないためだ。夢や目標を達成しようとする時障害となるのは大抵周囲の声だ。夢や目標というのはそれが大きければ大きいほど世間の常識とかけ離れたものにならざるを得ない。彼らはあたかも証明された事実かのようにあなたを否定してくる。そこで言い返し説得できるようになる。

3つ目は、あらゆる既成事実に毅然として立ち向かうためだ。事実にも色々ある。個人的な感情からニュースや科学まで。その中でも科学的事実は最も"正しい"事実の1つとみなされている。そのため科学的事実を否定できれば他の既成事実は否定が容易になる。

4つ目は、思考を研ぎ澄まし自分の頭で考え続けるためだ。

科学的事実を集団主観法で否定する

科学的事実は一般に客観的事実であると考えられている。それが科学の価値の源泉だ。一方で客観的な事実の対極にあるのが主観だ。個人の思いや感覚だ。それらは科学的事実とはみなされない。科学の客観性を否定することが出来れば科学的事実を否定できそうだ。つまり、科学的事実は誰かある個人や集団の思い込みに過ぎないということを示せれば良い。

ここで一度主観的と客観的の意味の認識を合わせておく。

主観的

自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。
出展 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/104938/meaning/m0u/

客観的

特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「客観的な意見」「客観的に描写する」
出展 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/54339/meaning/m0u/

上2つの意味は常識的で、異論はないだろう。さて、問題なのは客観的になることは人間には不可能ということだ。人間が語ったことは例外なく全て非客観的だ。科学的事実ももちろん例外ではない。

個人的な感覚や視点が、客観的な事実となるまでの過程は以下の4つに分解できる。

  1. 個人が生活の中で何かに気がつき仮説を立てる
  2. 実験や論理によってその仮説を実証する
  3. その実証に関心のある集団、コミュニティが正しさを検証する
  4. 一般大衆のもとに事実として届く

この各フェイズが主観に基づいていることを示す。

  1. 個人が何かに気がつき仮説を立てる

「この動物にはこんな習性がある」 「惑星の移動には規則性がある」 などと気がつき仮説を立てる。このように何かに気がつくためにはまず前提として自分の五感を使って世界と触れ合う必要がある。人間が知覚できないようなものはそもそも人間の話題にはなり得ない。

放射線や微小な物質は知覚できない?
そんなことはない。霧箱電子顕微鏡などを使えば「見える」。そう。ここでも最終的には人間が自分の五感を使って知覚せざるを得ない。このような人間の知覚を補助・拡張する道具を用いる場合は、さらにその道具が信頼できるという仮説を信じるという感情が挟まる。

そして、自分たちに関心がある現象だけを取り出す。関心というのは個人の感情だ

そして自分自身を納得させるような説を作る。
「これでこの現象が矛盾なくうまく説明できるぞ」と思えるような説だ。この矛盾なく、納得できるというのは個人の感情だ

  1. 実験や論理によってその仮説を実証する

実証するための実験は、その仮説が正しいことを示すために選ばれた恣意的なものだ。そして、その仮説が正しいことが示せたとする。その正しいというのは個人的な感情だ

  1. その実証に関心のある集団、コミュニティが正しさを検証する

個人の興味深い仮説は集団がそれを検証する。多くの場合はその分野の専門家による。興味深さとはつまり個人の感覚だ。追試や証明の精査が行われる。ここでの検証で大多数が正しいと認められるとついにマスメディアが大衆に流布し始める。この検証した集団が正しいと判断するのも個人の感覚だ

  1. 一般大衆のもとに事実として届く

一般大衆はもはや流れてきた仮説を信じるだけだ。自分で検証をしたりはしない。

さあ、4つにフェイズが主観によってのみ構成されていることを納得頂けただろうか。それぞれのフェイズを経るごとに変化しているのは、その仮説を主観的に信じる人数だ!

これで十分だと思うが、さらに付け加えると時代に主観にも依存している。時代が変われば常識が変わり、道具が変わり、それゆえ個々人の感覚も変わる。すると当然正しいと考えられる事実も変わる。

以上見てきた通り、実際のところ科学的事実は全く客観的では無い。主観の連鎖を経て大勢が信じるに至ったに過ぎない。

とはいえ完全に主観的でも無い。一人の感情や意見よりは大勢の検証を経ている。そこで、主観-客観の間に位置するもののとして俺が提唱する言葉が集団主観だ。

集団主観とは、ある集団で共有されている主観」のことだ。

それゆえ、科学的事実は個人の感情や宗教、擬似科学と同じレベルの客観性しか持っていない。受け入れたくなければ十分に否定して良いものなのだ。

このように事実を集団による主観に分解して否定する技法を「集団主観法」と名付けた。これを使えばどんな事実も否定できるようになる。

まとめ

科学的事実が集団主観的であるがゆえに否定可能であることを示した。そしてその根拠として事実が"正しさ"や"納得感"などの主観の連鎖に過ぎないこと、時代とともに変わることをあげた。

もちろんこれによって科学の価値が無いと言いたいのではない。それぞれのルール(≒集団主観)の中で緻密な議論や事実を積み上げることには価値がある。

だが、それは私たちにとって有益な、役に立つ範囲で行われるべきである。それらがあなたに損害をもたらしたり、傷つけたり、人格を毀損するようなことがあれば堂々と否定しても良い。そして常にその準備をしておくべきだ。